『ラースと、その彼女』:葛藤、克服、それが胸を打つ物語
等身大のリアル・ドールに恋した青年の物語と聞けば、「あり得ないコメディ」と思うのが当然。
そんな気分で観にいったところ、コメディだけれどシリアス、シリアスだけれどコメディという絶妙なテイストの展開で、驚きと同時に胸を打つ出来栄えだった。
映画としては、少々説明不足のところがあるので、観客側で幾分想像で補わなければならないところがあるやもしれなない。
そもそもラースは何故ビアンカと名づけられたリアル・ドールを傍らに置かなければならなかったのか。
そこいらあたりは判り易く描かれていないので、多分にわたしの想像も入ってしまうが、次のとおりではありますまいか。
ラースは出生と同時に母を失っている。
父は、ラースを産むことと引き換えに妻を喪ったことで、人間嫌いとなっていた。
それでも、「ミスター・サンシャイン」と呼ばれるぐらいの好少年に育ったラースは街の皆に愛されている。
母がいないことも、街の皆が彼を愛する一因となっている。
そんな中、思春期を経て青年となったラースの兄は、父とラースを残して出奔してしまう。
いまだ妻に先立たれた哀しみを負っている父の苦しみを一手に受けることとなったラースは、いつしか「愛するものは自分のもとから去っていく宿命」という恐れを抱いてしまう。
それと同時に、「自分を抱きしめて、自分の全てを受け容れて愛してくれる存在」、つまり母であり、愛の対象を欲する気持ちが募っていく。
そして、ある時、兄が帰郷する、妻を連れて。
義姉はラースにとっては、ある種の憧れであり、父の妻(つまり、母)の代替として、愛情を振り向けていく。
しかし、義姉は妊娠し、「妊娠=母の喪失」という恐れが甦り、なんらか別の愛情の対象を見出そうとした。
決して喪われることのない存在、の愛の対象を。
それがビアンカだった・・・
映画の中では、順を追って描かれていないが、リアル・ドール・ビアンカの治療に託(かこつ)けたラースの心療治療の中で女医と交わされる言葉や、兄・義姉の言葉の端々(はしばし)から想像した次第。
愛情対象の代替は、映画の中で巧みにに描かれている。
同僚男性社員のアクションフィギュアであり、ラースが心を開く新入女性社員もテディベアも同様。
特に後者は、終盤の人間的な扱いでも、判りやすい。
傍(はた)からみれば、滑稽で奇異なリアルドールも、ラースの葛藤そのものだと判れば、奇異でも何でもない。
だからこそ、街の皆が、「ラースのあるがまま」を受け容れようとしているのだ。
誰にだって葛藤はある。
映画の中のセリフを借りれば、猫に服を着せているとか、UFOクラブに入っているだとか。
映画は終盤、ラースが葛藤と乗り越えていく様を描いていく。
リアル・ドール・ビアンカとの口論という形で・・・
このあたりにくると、もうコメディではない。
身に覚えがあることに気づいてしまう。
そしてラースは克服をする。
そのことについては、ここでは書かない。
胸が痛く、しかしながら微笑ましい形で・・・
ラストシーン、そこには血の通った温かさが感じられました。
その温かさが、観る者のハートも温かくするのでしょう。
全体評価としては★4つ。
もう少し説明して欲しいなぁ、と思うところもあるもので。
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