『海を感じる時』:大切にされるって、どういうこと? @ロードショウ・単館系

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中沢けいの原作も読んだことはないし、主役の市川由衣という女優さんにもあまり魅かれなかったのですが、脚本の荒井晴彦と相手役が『ぼくたちの家族』で注目した池松壮亮が気になったので、公開から漸(ようよ)う鑑賞しました。
映画は『海を感じる時』。

1970年代半ば、千葉県の海に近い田舎町。
針仕事をして家計を支える母親と二人暮らしの高校生・恵美子。
新聞部の先輩・洋にキスを迫られ、その後、身体を許してしまう。
洋は恵美子と関係を持つ前に、「僕はきみが好きなわけじゃないんだ。女性の身体に興味があっただけなんだ」と告白されているにも関わらず、恵美子は洋との関係を断ち切れなくなっていく・・・

この断ち切れない関係のズルズルベッタリ加減を描いただけ。
簡単にいえばそんな映画。

ズルズルベッタリの男女関係の映画なんだけれど、荒井晴彦の脚本は「感覚的・生理的」ではなく、「理詰め」で攻めているような感じ。

映画の中心にひとつのキーワードを置いて、それを巡って攻防している。
キーワードは「大切にされるって、どういうこと」。

映画の前半で、成年して花店を切り盛りする恵美子がバイトとして雇っている娘が、中絶後に恵美子のアパートに押しかけてきて、夕食をともにしながら口にする台詞。

その「大切にされる」ということの解が、中盤にあわられる。
それは、高校を卒業して東京へ出て行った洋にあてた恵美子の手紙。
洋から送り返されてきた手紙。

恵美子が綴ったその一節。
「もしあなたがわたしを身体だけでも必要としているのなら・・・」

そう、必要とは・・・
誰かに「必要とされて」おり、
その必要なところを「充たして」あげることができ、
そして充たしてあげられたことを「感じられる」こと。

この三つの要素。

ここから先は想像なのだが、恵美子自身はそれまで「必要とされている」という実感がなかったのだろう。
だから、「女性の身体に興味があっただけ」でも、洋を受け容れてきたのだろう。

このあたりが、理詰めの脚本といっている所以。

ただこの理詰めが、映画全体を良い方に導いているのかどうかは、評価が分かれるところ。

十代から二十代にかけての「身体から始まる恋愛」物語が、「老成した」恋愛にも見えてしまう。

それに拍車をかけているのが、長廻しの撮影と、棒読みに近い台詞(もしくは、ぼそぼそ聞き取りづらい台詞)のやや老臭を感じてしまう演出。

とはいえ、オジサンのりゃんひさとしては、かなり興味深く観れましたけど。

評価は★3つ半としておきます。

<追記>
時代は、劇中流れる歌謡曲「まちぶせ」の歌手が三木聖子とクレジットされていたことから、推し量りました。
(石川ひとみの同曲は1981年)

<追記2>
終盤、恵美子と洋の立場・主客がごろんと入れ替わるのですが、『共喰い』ほどうまくいっていないように感じました。
エンディングで流れる主題歌が女の強かさを謳っているので、なおさら残念です。





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2014年映画鑑賞記録

新作:2014年度作品:67本
 外国映画43本(うちDVDなど 8本)
 日本映画24本(うちDVDなど 0本)←カウントアップ

旧作:2014年以前の作品:131本
 外国映画105本(うち劇場10本)
 日本映画 26本(うち劇場 5本)
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