『わたしは、ダニエル・ブレイク』:一市民。それ以上でも、それ以下でもない @ロードショウ・単館系
イギリスの名匠ケン・ローチ監督の最新作『わたしは、ダニエル・ブレイク』、ロードショウで鑑賞しました。
昨年のカンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞したもの。
脚本は、90年代の後半からずっとコンビを組んでいるポール・ラヴァーティ。
さて、映画。
英国ニューカッスル在住のダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は60歳間近の大工。
ここのところ心臓が不調で、医師から就業を禁じられている。
そのため、政府から手当をもらっているが、手当更新の際に面談した職員の判断で就労可能と判断され、手当を打ち切られてしまう。
不服申し立てをジョブセンターを訪れるが、職員はけんもほろろ、そういう仕組みだの一点張り。
そんな時、これまた手当の申請で職員から追い出されているふたりの子ども連れの女性ケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)と知り合う。
シングルマザーの彼女ら一家に共感と同情を覚えたダニエルは、一家を助けようとするが、彼自身も収入の途はない・・・
といったところから始まる物語で、その後、社会システムに翻弄されるダニエルの姿が描かれていく。
医者から就労が禁じられているにもかかわらず、生活費を得る途は求職活動手当しかないと知らされ、意に添わぬ活動をせざるを得ないダニエルの心の底には、自身の人間としての尊厳とは何か、という疑問が湧き出てくる。
活動家・アクティヴィストと言われるケン・ローチ監督らしい作品であるが、デビュー当初に撮っていた冷徹ともいえるような厳しさは薄らいでいる。
役所の職員たちは、システムがどうとか、手続きはどうとか、とにかく四角四面の規則を振りかざし、非人間的に描かれる。
まぁ、なかにはダニエルに同情し、心配して、生きていくためには、求職活動手当を得るしかないのだから、ここは折れて・・・と声をかけてくれる女性職員もいるが。
それに対して、ダニエルの隣人たちは、おしなべて優しい。
シングルマザーのケイティ一家もそうだし、中国から密輸でスポーツシューズを手に入れて安く売ろうとしている隣人の黒人青年もそうだ。
唯一、求職活動を行っているダニエルを雇おうとする園芸業のボスが、ダニエルの活動が似非だと知って激怒するが、これは正論であり、概ね、政府側の人々と庶民とでわかりやすく図式化されているのは、ケン・ローチ監督も年齢を重ねてきたからであろうか。
そこいらあたりは、わかりやすいが、物足りない。
映画はその後、予想どおりともいえる結末を迎えるが、最後の最後にケイティが告げるダニエルの言葉、これがこの映画でケン・ローチが言いたかったことだろう。
「わたしは、ダニエル・ブレイク。一市民。それ以上でも、それ以下でもない」
ひとりの市民として認めてほしい。
尊厳ある、ひとりの人間なのだから。
評価は★★★☆(3つ半)としておきます。
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2017年映画鑑賞記録
新作:2017年度作品:23本
外国映画19本(うちDVDなど 3本)←カウントアップ
日本映画 4本(うちDVDなど 0本)
旧作:2017年以前の作品:27本
外国映画23本(うち劇場鑑賞 5本)
日本映画 4本(うち劇場鑑賞 0本)
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この記事へのコメント
あ、ほっとしたんですね、なるほど。
でも、ケン・ローチ的には、ほっとしてほしくはなかったはずなので、やはり、歳を経たということでしょうかね。
もー、これはね、近々日本でも絵空事ではなくなってくると思いますよ。人口ピラミッドがそうなるようになっているのですもの。
税金払うだけ払って、いざ使おうとすると物凄い複雑なシステムになっていて申告しづらい…。そういう立場に立たされてしまうような気がしています。
>もー、これはね、近々日本でも絵空事ではなくなってくると思いますよ。
というのは、そのとおりです。
システムが複雑になり、プロセスを複雑にして、当事者に対して利を生まない。
システムの複雑化、プロセスの複雑化というのは、物理の世界(だったかなぁ)では、「エントロピーの増大」というらしい。
簡単に言えば、エネルギー(自然なのもの、人的なのも含めて)の無駄遣いなんだろうが、遣う=経済(経て、済む)ということなのだろう。
そこには、人間は不在になるのでしょうか。
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貴ブログを読んで考えたこととして、ケン・ローチがこの映画でいちばん力を入れたのは、冒頭のやり取りかもしれません。すなわち、官側は「<なんらかの形で>働けるなら、働いて<税を納めて、社会貢献して>ほしい」、ダニエル側は「<大工という、自分が望む形で働けないなら、それは>働けないということだ」と、個人と社会システムが折り合えていないこと、
そして、それは社会システム側が悪いのだ、と。
< >の部分を省くと、映画のようなやり取りになるのでしょう。
本作では、「求職活動を行っているダニエルを雇おうとする園芸業のボスが、ダニエルの活動が似非だと知って激怒する」シーンが描かれていて、おっしゃるように、園芸業のボスが言うのはまさに「正論」ながら、他方で、ダニエルの行動については奇妙な印象を受けてしまいます。
というのも、おそらくダニエルは、求職者手当(JSA)を受け取るためには雇用されなかったという証明が必要だ、と担当者から言われていたので、「園芸業のボス」の申し出を断ったのでしょう。でもそれは、JSAというシステムの趣旨を誤解しているように思われます。それは、求職活動をするための手当であり、職が見つかり、給与が得られることになれば支給されなくなるのは当然でしょう。雇用支援手当(ESA)に代わる手当を何とかして受給したいという思いから、せっかくの職を断ってしまったのでしょうが、ダニエルにとって大切なのは、所得の確保であって、手当の受給ではないということではないでしょうか?
そこらあたりがきちんと映画の中で説明されないと、ここにもシステムの不備があると映画を見る者(特にイギリス以外の国で見る者)から言われかねないのでは、と思えてしまいます。
なお、「りゃんひさ」さんの拙ブログに対するコメントについてのコメントは、拙ブログの方に記しましたので、お手数ながらそちらをご覧ください。
自国(日本)のシステムも複雑になっている状況。
他国のシステムを理解するところまでは・・・厳しいです。